その後はひたすらゴジラとギドラが絡まっているだけ!!
何やねん・・・
アニメならではの映像や演出を期待していただけに
これはアカン・・・
しかも本作のゴジラバトルはこれしか無い!!
一番の問題はゴジラvsギドラで決着する訳ではなく
ハルオvsメトフィエスになってしまっている点。
人間vs人間で決着って・・・
これゴジラ映画ですよね???
ゴジラで決着ではなく人間同士で決着ってどういう事よ?
そして本作は非常に宗教色が強い。
「神を崇めよ」
「神を信じよ」
「神が全てから救ってくれる」
「神を信じれば救われる」
(この場合の「神」=「ギドラ」)
ゴジラ映画でこんな言葉を聴くとは思いませんでした。
「ゴジラ」=「核への象徴」だったのでどうにも受け入れがたい・・・
そしてラストシーンの不気味さ。
最終の一連シーンが訳分からん!
第2章『GODZILLA 決戦機動増殖都市』ラストでの結論
「人としてゴジラに打ち勝たねば意味がない」
ラストシーンでそれを覆してませんかね??
ーーーーーーーーーー<ネタバレ>ーーーーーーーーーー
『「人として」ゴジラに打ち勝つ事で地球を人類の手に取り戻す』事がテーマになっているように感じた訳ですが
『GODZILLA 星を喰う者』では「人が人である事を放棄しギドラに頼る事は間違っている」という結論を出し
ハルオは勝利します。
しかしハルオが最後に取った行動は
「ナノメタルという人の負の遺産」と
「ゴジラに対して憎しみの感情を持っている最後の人として」を背負いユウコと一緒に自爆するというもの。
エンドロール後のシーンで人類とフツアが同化し「憎しみ」という概念が存在しないフツアの世界になっています。
その後ハルオは神格化され
恐怖を振り払う為の儀式が描かれていました。
今シリーズのテーマは
「人が人としてゴジラに打ち勝つ事」
だったと思うのですが
「人が人である事を捨てゴジラに屈服する事」
になっているように見える。
※あくまで個人的意見です。
最後のハルオの行動は「人として」の『最後に持ち合わせていた「憎悪」と「恐怖」を「捨てた」』ように見える。
ゴジラに勝つ為には「人として」を捨てなければ勝てない
という結論。
確かにゴジラを倒す為にはそれが必要だったかもしれないが
それは勝利ではない。
ただゴジラに屈しただけ。
何も解決していない。
これから永遠にゴジラの居る世界でゴジラに脅えながら
生きていく事は本当に正解だったのか?
54年版ゴジラ映画第1作目のラスト
「芹沢博士が自身が発明したオキシジェン・デストロイヤーを使い自らの命と引き換えにゴジラを倒す」事で終結します。
これこそが「人が人たりうる」行動だったと思います。
「オキシジェン・デストロイヤー(超科学)」=「人としての存在意義」と思っていますので、それを使いゴジラを倒す事は本当に意味での人類の勝利になっていると感じます。
科学で生まれた存在(ゴジラ)を同じ科学(オキシジェン・デストロイヤー)で倒すという皮肉でもあると思っていますが。
(※人間=科学というのは私の持論です※)
作品が違うのでテーマも違うのは理解出来ますが
ゴジラを倒せとまでは言わなくとも
ゴジラに対して人類の何らかの勝ち取ったモノ
が必要だったのではないかと思う。
これではただゴジラに完膚なきまでに叩き潰されただけで終わってしまっている。
ゴジラに地球を奪われてもた(第1章)
↓
しゃーないから宇宙に逃げるわ(第1章)
↓
やっぱり地球しかないしゴジラ倒したる(第1章)
↓
倒せんかったわ(第2章・第3章)
↓
だから感情捨てて生きてくで(第3章)
なんやコレ??
話が脱線しましたが
本シリーズは「テーマがブレている」というのが私の結論。
※あくまで個人的意見です。